大喜庵

雪舟が晩年を過した東光寺は京都五山の東福寺から名僧が派遣されて住持となるほどの名刹であり、その規模も伽藍や経堂が備わったお寺だったといわれていま す。大喜庵はその東光寺が焼失した跡地に建てられたお寺です。
雪舟が晩年を過した東光寺(現大喜庵)は、当時は吉田平野を通して日本海を望む様子が中国の洞庭・瀟湘の景をそのまま眼下に展開させる趣があって、このよ うな風景を雪舟が好んだことと、戦乱の世にありながら益田領が「弓の音聞かぬ国、鞆の音聞かぬ国」としての平和郷であったからだと言われています。
また悠悠自適の生活を送る雪舟が愛好したものに、 1mの深さに掘られた岩に清水を湛えた霊岩水があり、硯や茶の水に使ったといわれ、現在でも愛好者が絶えません。 また、東光寺の裏には87歳で亡くなった雪舟の墓が建てられています。 この場所には、偉人を慕う人々が国の内外から多く訪れています。
また、大喜庵の創建者である大喜松祝もこの墓所に眠っています。

萬福寺

益田氏の菩提寺で、鎌倉時代の様式を残す本堂は、国の重要文化財に指定されています。萬福寺はもともと安福寺と称し、益田五福寺の一つでした。 鎌倉中期に現在地に移され、萬福寺と改められています。
慶応2年(1866)幕府と長州藩が戦った第二次長州戦争(四境戦争)石州口の戦いが益田で行われたなごりとして、萬福寺の柱には今でも弾痕が残ってお り、寺の歴史の深さが偲ばれます。
この寺の雪舟庭園は寺院式庭園で、 正面の心字池の向こうになだらかな築山と石組群が見える、穏やかで明るい庭園です。
「二河白道の図」(鎌倉時代作、国重要文化財)、本堂(国重要文化財)、雪舟庭園(国史蹟及名勝)と文化財が多く、本尊は阿弥陀如来で平安時代の作です。

暁音寺

大喜庵のふもとを流れる乙吉川の川べりに、石垣が約30m続いています。
中世の頃は益田川と高津川が合流していた地点と推定され、船着場として最適な場所であったと考えられています。
石垣自体は江戸時代以降に造られたものですが、戦国時代には港及び市場として機能していました。

益田兼見の墓 市指定史跡

萬福寺境内の椎山墓地にある五輪塔群のひとつで、11代益田兼見の墓と伝えられます。
兼見は、14世紀中頃、三宅御土居に館を移し「田数目録帳」を作成しました。
この時期に医光寺(崇観寺)・萬福寺・天石勝神社等が建立され、館を中心とした中世的な都市景観が作られました。

益田兼堯の墓 市指定史跡

七尾城跡の尾崎丸山麓の大雄庵跡の近くに15代益田兼堯の墓(五重塔と宝篋印塔の残決)があります。
兼堯は応仁の乱以降の激動期に、大内氏と共に石見を支 配する国衆として各地で戦いました。
兼堯は文化を愛し、崇観寺(現医光寺)住職に雪舟を招いています。

七尾城通り

七尾城は、益田氏の居城で、頂上の本丸跡は標高118m、益田平野と日本海を一望することができます。
全長600m以上の大規模な山城ですが、石垣は築かれていませんでした。
居城跡の三宅御土居とは、益田川をはさんで870mの距離になります。
築城された時期については諸説ありますが、文献史上に現れるのは南北朝時代からで、南朝方の三隅氏が「北尾崎木戸」を急襲したことが益田家文書に残ってい ます。
戦国時代の末に19代藤兼は、毛利氏の攻撃に備えて七尾城を改修し、自身も居住していましたが、和睦に伴い下城し、再び三宅御土居を本拠にしました。
中世七尾城の大手門は、 現在、医光寺前に移築されています。

天石勝神社

式内社である石勝神社は御朱印地を持った神社として有名で、祭神は天石勝命です。
社伝によると神亀2年(725)に創建され、滝蔵権現と称して、承平元年(931)には別当寺勝達寺を建立し、中世には益田氏の庇護を受けて発展しました。
しかし、明治の廃仏毀釈に伴い勝達寺は廃絶され、権現は社名を染羽天石勝神社に改めました。
本殿は三間社流造で、3間×3間の身舎の前に奥行き1間の吹放し板張りの庇床を設け、両側のみに高欄付の縁があります。
このような構造はとても珍しいものです。棟札の写しによると、天正9年(1581)に本殿が焼失したため、益田元祥が大旦那、父藤兼が後見になって再建されました。

三宅御土居遺跡

益田氏の居館跡と考えられています。 この館跡は、土塁で囲まれた2ha余りの広さをもつものと思われますが、現在土塁は東西にしか残っていません。この居館跡は益田氏が、関ヶ原合戦後に周布 に封印されるまで使用されていました。平成16年に国指定史蹟となっています。

福王寺石造十三重塔

福王寺は益田川西岸の中須町にある真言宗の寺です。 石塔はかつて五福寺のひとつ安福寺があった中須浜崎の寺屋敷跡から、享保14年(1729)の益田川大洪水の際に掘り出されたもので、 石台には「享保十四年六月九日、九重宝塔出現建立」とあります。
その後、二段の塔石が発見され、現在は十一重塔になっていますが、全体的なバランスからも とは十三重塔であったと思われます。 鎌倉時代後期の県内最古の石造美術品です。

鴨島展望地〔久城ヶ浜センター前〕

益田川河口近くの高台に柿本人麿終焉の地「鴨島跡」を正面に望める展望地があります。
ここから西の方向には、美しい弓形の海岸線のむこうに、大道山系の山々が海にのびています。 晴れた日は山陰の青い海と空が爽やかで、 夕方は入日で赤く染まります。

扇原関門と岸静江墓碑

元治元年(1864)蛤御門の変で長州軍は朝敵となりました。
幕府は慶応2年(1866)、第二次長州戦争の軍を起こし、四境(石州口・芸州口・大島口・小倉口)より戦端を開くことにしました。 そのうち石州口の戦場となったのが益田市です。
幕府軍は浜田藩400名、福山藩600名の連合軍で、 6月17日の朝に益田に布陣しました。
一方、大村益次郎率いる長州軍1500人は幕府軍の動きを読み、16日には扇原関門(益田市多田町)に迫りました。 関門を守るのは、扇原関門守備隊長の浜田藩岸静江国治と少数の士卒、そして農民兵16名のみです。圧倒的多数の長州軍は、何度も開門を迫りましたが、 藩命を遵守した岸静江は断固拒絶し、石州口の戦いの火ぶたが切られました。
槍の名人であった岸静江は甲冑で武装を固め長州軍の前に立ちはだかりました。しかし近代兵器の前ではなすすべもなく、銃弾を浴びて立ち姿のまま絶命したといいます。
感嘆した長州軍は一度横田へ帰陣し、埋葬と碑建立費用を拠出して梅月西禅寺住職に依頼しました。 岸静江は享年31歳。彼の脇差は益田市民俗資料館に保管されています。
翌6月17日、長州軍は扇原を通り益田口へ来襲し、本陣を妙義寺に構えました。また、16日には、育英隊と須佐隊もそれぞれ戸田と持石浦に上陸し、高津に着陣しています。
勝達寺、医光寺、萬福寺に布陣した幕府軍との戦いは双方互角の打ち合いで大戦となりましたが、形勢は次第に長州に傾き、夕方には長州軍の勝利に終わりました。 萬福寺本堂に当時の弾丸の跡が残っています。

四塚山古墳群(下本郷)

昭和47年に団地造成現場で、前期古墳を象徴する中国製の鏡・三角縁神獣鏡が発見されたことにより、当地に石見で最古の古墳が存在していたことがわかりま した。地元では昔から4基の塚があったことが知られており、四塚山と呼ばれています。
現在は開発により古墳の大半は残っておらず、古墳の内容を知ることはできませんが、三角縁神獣鏡が出土したことから、古墳時代前期(4世紀)につくられた と考えられます。
日本海まで一望できる丘陵の一角に位置する当地に、石見地方を代表する首長が存在していた可能性を示しています。

大元古墳群

大元古墳群は前方後円墳の1号墳、円墳の2号墳および円墳状の3号墳からなります。特に1号墳は丘陵の尾根を利用して築造されており、全長88m、後円部の高さ7mと石見地方で最大級の古墳です。
墳形や後円部から出土した埴輪の特徴から4世紀末〜5世紀初めに築かれたものと考えられます。三角縁神獣鏡から出土した四塚山古墳群に次いで築かれ、スクモ塚古墳(5世紀)、小丸山古墳(6世紀前半)へと続く首長墓のひとつと考えられます。

スクモ塚古墳

益田川以東には比較的多くの古墳がみられますが、なかでも久城台地のほぼ中央に位置するスクモ塚古墳は、石見はもちろん県内でも最大級の古墳として有名で す。
これが古墳であると判明したのは、昭和14年に郷土史家の矢冨熊一郎氏の発見によるもので、その後文部省の調査により昭和16年12月に国の史跡に指 定されています。
築造された年代は、出土した円筒埴輪などから古墳時代中期(5世紀)とみられます。
これだけの規模の古墳に眠る主は、益田平野東部もしく は久城台地一帯を支配していた首長クラスであると想像されます。スクモ塚古墳は未発掘であるため不明な部分が多く、特定ができないまま、近年は直径57m の「造り出し付円墳」とする説が有力視されていました。
しかし、平成19年度に島根県埋蔵文化財調査センターによって最新の測量調査が実施され、その結果 前方後円墳の可能性が高いと指摘されました。もしそうであれば復元全長100mと、県内で最大の前方後円墳になります。

小丸山古墳

小丸山古墳は益田平野を一望できる山頂に位置します。 墳丘の全長は約52m、後円部の高さは7.3mと石見地方でもトップクラスの規模を誇る6世紀初め頃の前方後円墳です。古墳の周囲に周溝と外堤を備えてい るのが特徴で、このような形態のものは石見で唯一です。
隣接する大喜庵や雪舟の郷記念館と共に、歴史公園「雪舟山水郷」として整備されています。

鵜の鼻古墳群

益田市の東北、日本海に突き出した半島上に横穴式石室を持った小さな古墳が多数造られています。 6世紀後半〜7世紀にかけて築造された鵜ノ鼻古墳群です。
多くの古墳が存在することは古くから知られていたようで、江戸時代後半頃に著された「石見八重葎」に「津田遠田の辺塚穴167存し、昔50余りあり」の一 文が見られ、その後の研究者によっても当古墳群の総数は50基あまりと認識されてきています。
現在確認されている古墳は、全長がいずれも30mほどの前方後円墳4基、一辺13mの方墳1基を含む約30基で、中でも比較的保存状態の良い19基は県指定史跡となっています。
古墳群の大半を占める円墳はいずれも10m前後の小規模なもので、長さ4〜6mの横穴式石室を持っています。 石室は、細長い玄室に羨道が片側に寄せてつく片袖式の平面形をとっているものが大半ですが、一部に側壁と奥壁に石を三角形状に架け渡した三角持送りという 特徴的な構造を持つものもあり、この構造と共通する技法を北九州あるいは朝鮮高句麗に見ることができます。

匹見古代遺跡群

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