益田糸操り人形とは
益田糸あやつり人形は、昭和38年7月2日に「島根県無形民俗文化財」に指定されました。
益田に糸あやつり人形が伝わったのは、明治20年ごろといわれます。当時、東京浅草で糸あやつり人形芝居を興行していた山本三吉が、その衰退を懸念し関西から益田に居を移すと、当時盛んであった浄瑠璃の愛好者たちの集まり「小松連(こまつれん)」に迎えられたことに始まります。のちに彼の指導のもと、現在の益田糸あやつり人形芝居が形作られました。
この人形芝居は、人形操者、太夫、三味線、後見の4役で上演され、地は義太夫節です。人形の操法は、遣(つか)い手が高さ1.5メートルの歩(あゆ)み板の上から、丈約70センチの人形の各所に13本から18本の糸が繋がった、四つ目と呼ばれる手板を使って人形に微妙な動きを与えるもので、この操作には熟練を要します。 この操法自体が東京の結城座(ゆうきざ)や竹田座(たけざや)に現存する改良されたものとは異なっており、益田糸あやつり人形のように古い形態をとどめたまま上演されるのは、わが国で現在上演されている糸あやつり人形の中で唯一無二のものといわれます。
演目解説
三十三間堂棟木の由来 平太郎住家の段
(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい へいたろうすみかのだん)
白河法皇は熊野山中の柳の木の梢に前生の髑髏がかかっており、風が吹く度に頭痛を起こされていた。法皇の病気平癒祈願のため、その木を棟木として三十三間堂を建立する事になった。この柳は五年前に秋仲の鷹狩りの際、鷹の足緒がからまって切られかかったところ、平太郎の一矢で免れた木である。恩返しのために人の姿となった柳の精お柳は平太郎の妻になり、緑丸という子を設けていた。柳の木を切る音が聞こえる。お柳は苦しみに堪えつつ平太郎に身の上を明かし、法皇の前生の髑髏を渡すと、これを手柄として出世するように言い残して消えて行った。街道では柳の木を切って運ぼうとしたところ突然動かなくなり難渋していたが、緑丸を連れた平太郎が是非綱を引かせてほしいと頼む。平太郎の木遣音頭で緑丸が綱を引くと、柳は易々と動くのだった。
義経千本桜 すしやの段
(よしつねせんぼんさくら すしやのだん)
すし屋「釣瓶鮓」には、主人の矢左衛門、女房のお米、娘のお里、美男の手代弥助が暮らしている。実は弥助は三位中将維盛であり、身分を偽って使用人にみせかけてかくまっている。そこに維盛の妻子・若葉の内侍と六代君が一夜の宿を借りに来た。弥助と夫婦になれると信じていたお里は突然の事実を知って驚き嘆き悲しむ。その時村役人から平家探索の源氏方・梶原景時が間もなくこちらへやってくると知らせが入る。お里はつらい思いを内に秘め、健気に三人を上市村へと逃がしてやる。
傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段
(けいせいあわのなるとじゅんれいうたのだん)
殿様の刀を取り返すために盗賊となった十郎兵衛(じゅうろべい)・お弓(おゆみ)夫婦のもとに仲間から追っ手を知らせる手紙が届く。お弓が夫の身を心配していると、そこへ巡礼の少女がやってくる。話を聞くうちに、その少女が、ふたりが国を出るとき故郷に残してきた実の娘お鶴(おつる)だとわかる。しかし今は盗賊の身。親子と名乗れば娘にも罪がかかるので名乗ることができない。親探しを諦めるよう言うものの、お鶴は聞き入れようとしない。お弓は親子の情に耐えかねてお鶴を抱きしめ、また娘もいっしょに暮らしたいと願う。お弓は心を鬼にして、涙ながらにわが子を追い返そうとする。しかし今別れてはもう二度と逢えないと思い直し、ふたたびお鶴のあとを追いかけていく。
登場する人形はお弓(親)。お鶴(子)の2体です。
その他演目の情報は、グラントワの「益田操り人形」ページをご覧ください。
練習見学・入会・寄付に関するお問合せ
益田糸あやつり保持者会
島根県益田市多田町1036-33
TEL:0856-22-5808